2014年12月26日金曜日

冬の夜の夢、風の前の塵

ただいま。

こうやって地元に帰って、久しぶりに(とは言っても日本シリーズのときに帰ってるからふた月ぶりではあるけれど)実家のベットで横になっていると、なんだかなおさら自分がいるべき場所がどこなのかわからなくなってしまいます。

だからそこまで久しぶりではないと言っても、色々と変わっているものはあります。

地下鉄の電光掲示板とアナウンスが新しくなっていました。天神のパルコには新館ができていました。地元の駅はリフレッシュ工事で階段が狭くなっていました。実家の洗濯カゴは、僕がいなくなってから小さくなっていました。体重計も、昔の液晶の映りが薄いやつではなく、もっと本体が薄くて軽いものになっていました。おばあちゃんやおじいちゃんは、きちんとアレの使い方をわかっているのでしょうか。

色々なものが変わっていきます。そういえば、小学四年生(!)のときに未来の自分への手紙を書いたのを覚えていますか。今となっては開けたくない気持ちでいっぱいです。10歳の自分は、10年の間に人がどれだけ変わっているかをわかっていないだろうから。

15歳になるとだいたいのことはわかると思います。高校を卒業したときに、僕はすっかり忘れていたけれど入学したときに書いた手紙を渡されて、開けた一行目が「無事3年で卒業できましたか」と書いてあって吹き出したのさえ、もう懐かしい思い出です。停学になりかけたり寮を追い出されたり、色々なことがあって、またあと少し間違えたら留年していた自分の状況を考えると、15歳の時の自分はすごく自己理解が足りていたと思えます。

でも、10歳の自分は違う。絶対に残酷です。たかが半年いなかっただけでこのちっぽけな街でさえ変わってしまうのだから、人間が10年経って変わらないはずがないでしょうに。

10年前の自分がどんなことを考えてて、また10年後の自分にどんな自分になってほしかったのか、知りたさ半分怖さ半分……。

でも変わっていくってことは、楽しいことでもあります。だって、昔の自分に今の自分を自慢するのってめちゃくちゃ楽しいでしょう。
今の俺はこれこれこうこうで〜って言って、すごい!って言われるの。

でも(今日は逆説が多いな)そうやって昔の自分と変わっていくっていうのは、確実に何かを忘れなきゃいけない。忘れないと、前には進めない。恋人のことから、夕飯の買い物のことまで。昔の恋人のことを引きずりながら新しい恋人は作れないし、昨日のカレーを引きずって今日の買い物をしちゃうと、いいとこ肉じゃがくらいしか作れなくなってしまう。

もちろん、何かを忘れるというのは寂しい作業で、でも美しい作業でもあります。もう開けないってわかってるけど、なんとなく捨てずらいものたちを、段ボールにしまってベッドの下に置いとくような、罪悪感と昔への憧れの混じったような、そんな気持ち。

だから今、実家に帰って、10年近く使ってるベットで中学の卒業アルバムを眺めています。3年間の時間がこのアルバムの中を流れていて、今と同じものなんて少しもないです。変わったものばかり。
昔使ってたデニム生地の筆箱とか、書道セットとか、もう死んじゃった体育の先生とか、色んなものが写ってて、そのうちのいくつかはもう二度と会えない。今まだ会えるものでさえ、10年後にまだ会えるかって言われると、それも今はわからない。当たり前のことだけれど。

でも、こうやって今日アルバムを眺めて、いくつかのことを思い出せた。だからこうやって、10年後にこの手紙めいたものを自分が読んだときに色々なものを思い出せるように、こうやって今文章を書いています。
返事はいりません。

2014年11月27日木曜日

綺麗は汚い、汚いは綺麗

このフレーズには聞き覚えがあるが、いったいどこで聞いたものだかは忘れてしまった。
そうしてなんでこんな時間にこんなディズニー映画じみたタイトルのブログを書きはじめたかということだけど、シンプルにいえば家の鍵をどこかに置き忘れてしまったからだ。

これがもし地元ならば、まず鍵を持ち歩いたりしないし、どこかに置き忘れてしまったところで30分も友達と探し回れば、簡単に見つけられる気がする。でも、残念なことにここは東京なのだ。
今日俺は、合計でおおよそ2kmの道を歩き、5回電車に乗り、たくさんの人間が出入りする場所に3箇所行った。だから、もちろん電話をかけてみたり最善のことはするつもりだけど、もしかしたらもう二度と鍵は出てこないかもしれないし、不動産に頼んで合鍵を作るほうがよっぽど早いだろう。
それでもこの時間にやっている鍵屋なんかに頼もうものなら、何万円かかるかもわからない。そうして今夜の寝床を確保するために飛び込んだ、家の近くのネットカフェ。

もしも池袋行きの電車が終わっていなかったら、間違いなくそっちに行っただろうに、悲しいかな我が家の近くのネットカフェは、今までたくさんのネカフェで夜を過ごしてきた僕史上、最も古くて汚いネカフェだったのである。

そうして部屋に入り、母に電話した。やはり困ったときの母は強い。そして優しい。なぐさめるわけでも叱るでもなく、ただ冷静に対応策を練り、まあそんな日もあるさといって電話を切る母親。
そういえば前にもこんなことがあった気がした。そうしてそれはデジャブではなかった。

あれは忘れもしない今年の二月の……何日だったっけ。とにかく、日芸の放送学科の二次試験の受験の前日のことだ。
日芸の放送学科はどうも田舎ものがお嫌いらしく、一次試験の筆記が終わるとそのまま二次試験の実技に向かう音楽学科や美術学科を尻目に「それじゃ一次の合否は二次の前日に発表するから待っててね~ん」なんて抜かす。別に放送学科が本命ではなかった俺は、まあ落ちててもいいや的な楽観的な姿勢のまま羽田空港に向かう。そうして羽田空港で飛行機の遅れを知り一次試験の答え合わせをしてみた。

一般的に日芸は一次で140あれば実技の出来は多少よろしくなくても受かる可能性は高くなって、また一次と二次がある学科はだいたい110点くらいあれば一次は通過するという(無論芸術学部なので大事なのは実技だけど)。そうして俺は一次で160点をゆうに超えていた。だから俺は帰りの飛行機で羽田を飛び立つとき、滑走路を眺めながら「グッバイTOKYO、また四日後な」などとニヒルな顔でつぶやいたものである。

そうして運命の発表の日、当然のごとく合格していた俺は母親と福岡市の中心・天神で落ち合い、飛行機代の支払いなんかをしてもらって、俺はそのまま羽田へ向かった。母親から「まあ放送は第一志望じゃなかっちゃろ?でもそげんようらにやっちゃだめよ」(*「よーら」…博多弁で「てきとう」「いいかげん」という意味とです)というありがたいお言葉と一万円を頂き、るんるんで東京に飛び立った。しかし、俺も母親も、空港の荷物係員でさえ、俺が学校指定のワイシャツを忘れていってしまっていることに気づかなかったのだ。なんということだろう。それに一番に気づいたのは母で、もちろん母が家に帰ってからのことだった。
空港の係員も、どう見たって俺は入試に行きそうな身なりをしてるんだから、X線をかけて「あのうそちらの生徒さんのスーツケースですばってん、学ランはありますがワイシャツの入っとらんごたるですよう」とくらい言ってくれればよかったのに、どうしてそうしてくれなかったのか不思議なくらいだ。

とにかく、まあワイシャツやら百円ショップででん買うならよかねエヘラエヘラと母と話し合った俺は、すぐさま西武新宿駅のダイソーに行った。しかし、ワイシャツはなかった。
もう夜が始まろうとしていた。歌舞伎町で夜を迎えるのは避けたかったのでワイシャツはあきらめて泊めてもらう先輩の家で貸してもらおうと思った矢先、腹が痛くなった。だから、今でも忘れない島村楽器の横のトイレに駆け込んだ。コートやらなんやらを脱ぎ、さいふをベビーチェアに置いて用を足し、ほっとしてトイレを後にして、エレベーターで一階まで降りたところで気がついた。
財布をトイレに置いてきた。

もうわたしったらおっちょこちょいだなあ、てへっなんて思いながら意気揚々とトイレに戻ると、財布が開いている。おやおやなんだこれはと思いつつ中を見ると、綺麗に一万円札がなくなっているではないか。

俺は絶望した。どうやってこんな不案内な土地で無一文で暮らしていけばいいのだろう。
つらく悲しい気持ちを引きずりながら浴びた東京の木枯らしは、なんともひどいものだった。
そうして母と、対応策を話し合った。キャッシュカードなんてハイソなものをまだ持っていなかった俺は、泣く泣く生まれて初めて文章を書くってことで賞品としてもらった一万円分の図書カードを換金することになった。

どこで換金しよう、と思ったが、金券ショップの場所なんてわからない。必死で調べて歩き回った。
そうして歌舞伎町を歩き回っていると、雑多で、猥褻で、汚くて、高校のころ少しだけ浮き足立って歩き回った中洲の街が、とても綺麗で小さく思えた。

話しかけてくる客引きはとんでもなく邪魔だったが、その中でも人のよさそうな顔をした客引きが「何かお探しですか」と言ってきた。無論この客引きはピンサロとかキャバクラとかそういうのを案内するつもりだったんだろうけど、実はこれこれこうこうだと話して、金券ショップを案内してもらった。後にも先にも、客引きが金券ショップを案内することはないだろう。

そうして一万円分の図書カードを換金して母に電話すると、「よか」とだけ言われた。
何のよかことのあるやろうか。母がくれた一万円は、きっとこの街で使われるのだ。母が稼いだ一万円は、この街で淋しい人間が淋しいセックスをするために使われるのだ。そう考えると、腹立ちとも怒りとも悲しみとも言えない気持ちがこみ上げてきた。

そういうわけで、俺のお守りみたいな一万円分の図書カードは、歌舞伎町の金券ショップにある。今もあるかはわからないけど、いつか金持ちになってそのカードを買い戻すのが、今にところでの俺のささやかな夢だ。

余談だが、俺は次の日の実技試験をぼろぼろのメンタルで迎えた。金をなくし、やけくそで実技受けるのやめようかなって言えば遅くまで面接の練習を手伝ってくれた友達に激怒され。でも結局、その話をエッセイにして実技試験で提出したら合格を頂いた。綺麗と汚い、幸福と不幸、戦争と平和、ものごとはそういうふうにできているのだ。


そういえば、あのとき先輩から借りたワイシャツ、まだ返してないなあ。

2014年9月9日火曜日

終電で帰るってば

前回に引き続いて高校生のころの話をちょっとだけ。

いくら落ちこぼれとはいえヤンキーじゃなかったから、どれだけ遅くなっても終電で帰っていた。田舎なこともあって終電はこの時間、友達の落ちこぼれどもが一番楽しんでいる時間帯に抜けるわけだ。そうして終電で帰っていると、いつも必ずめぐり合う人たちがいた。
一人目は、スポーツ刈りのおじさん。いつもジャージで、ポケットには小銭をジャラジャラ持っている。本当に小銭をかき回す音がすごくて、少なく見積もってもたぶん30枚そこらは入っている。でもたまに財布を取り出すから、財布を持っていないわけではないらしい。
そして、いつも茶色のティアドロップのサングラスをかけた、背が低めのおじいさん。この人はいつも同じスーツを着ている。そうしておとなしく電車に乗っているだけだ。俺とこの人は降りる駅が一緒だけど、この前電車を降りて跨線橋に向かっていると、このおじさんが電車のなかでキョロキョロしているのを見た。多分寝過ごしたのだろう。
この人はとにかくよく見かける。その分思い入れも深い。何故かはわからないが、とにかく電車がかぶることが多い。無論ここは東京とは違って、俺の最寄りまでいく電車はだいたい15分に一本あればいい方なので、必然的にかぶることも多くなって仕方ないけど。
高校生になる前、つまり天神で生活の大部分を過ごすようになる前からたまに電車では見かけていたので、よっぽどのベテランだ。でも、サラリーマンではなさそうだ。どうしてかって、俺はこれまでただの一度もこのおじさんが荷物を持っているところを見たことがないからだ。

いや、一度だけあった。それはいつかの年のクリスマスのことで、福岡駅のケーキ屋さんの箱を持ったこのおっちゃんを見かけた。これだけはよく覚えている。だれと食べるのかはわからないけど、それでもともかくケーキを食べられるクリスマスを送っていることだけは確かだ。何でかはわからないが、とにかくそれで俺はなんだか安心してしまったのを覚えている。

どうして急にこんなことを書いているかというと、それは無論俺が今大牟田行きの終電に乗っていて、そうして小銭のおじさんが横で相変わらず小銭をジャラジャラさせているからだ。

こうして大学生になって福岡を離れ、それでも俺が福岡にいないことなんて関係なしに今までどおりの生活を続けている人を見ると、安心する。それが当たり前のことだと分かってはいるけど。

いつかずっと先にこのおじさんたちと写真を撮るのが夢だ。でもそれは多分無理だ。そんなことはわかっている。だからとりあえずは、向こうも俺のことを「こいつよく見るな……」くらい思っておいてほしいとは思う。次に帰省した時もまた会えると嬉しい。家族と友達と彼女以外でこんなことを思うのはたぶんこのおじさんたちだけだろう。

2014年6月29日日曜日

親不孝通りワンダーランド

親不孝ものだという自覚はあります。

小学生のときが人生で一番勉強していただけあって、その跳ねっ返りで全く勉強をしない中学、高校生活でした。塾にはいくようになっていたのですが、その塾もなんとまあサボり気味で、高校に至っては高1高2、高3の秋まで全く行ってません。学校サボった日の数ほうが塾に行った日の数より多いかもな、ってくらいでした。
まあまあ名のある高校に通っていて、周りなんて頭いいやつらばっかりで、それで落ちこぼれていた人たちと遊んでいると、なおさら成績なんて取れなくなっていくというこの無限ループ。でもそれが意外と心地よくって、別に成績なんてどーでもいいやどうにでもなれーという、それはもう楽しい高校生活でした。

福岡に「親富孝通り」という通りがあります。無論読み方はおやふこう、親不孝です。もともとこの通りの名前は親不孝通りだったらしいけど、やっぱり名前のイメージが悪いからって、全然関係ない名前(天神万町通り)に改名して、でももちろんそんなの浸透するはずもなく、誰もがオヤフコーオヤフコーって呼ぶんですよ。
今は飲み屋とかカラオケこそあれ、昔ほど半狂乱みたいな盛り上がり方はしてないです。
なんで親不孝なんて名前になったかっていうと、この通りのどん詰まりに予備校がいくつもあったらしい。芸大の予備校とか、こじんまりした個人の予備校とか。
そんで、やっぱ儲かるところにお店を出さなきゃいけないのが市場経済の宿命なわけでして、この通りにたくさんの飲み屋やカラオケや、「学生」向けのお店が立ち並んで、バブルの絶頂には九州で一番のクラブもできちゃって。
佐賀とか長崎、熊本から国鉄(!)の特急「かもめ」でやってくる人たちのことをかもめ族と呼んだそうです。
そんな風に夜な夜なこの通りに若者たちが集まって、そうして出来た通りが「親不孝通り」なんだそうです。

今日浪人生の友達と長浜にある温泉に行ったんですけど、天神から長浜に抜ける時にちょっとこの親不孝通りらへんを通るんですよね。そんで、ふと思ったんですよ。あ、浪人生…って。

この浪人生たちはもちろん高校の落ちこぼれ友達で、なんだかわかんないもんだなって思いました。

親不孝ってなんなんでしょうね。奇しくも僕のお母さんも、若い頃は親不孝通りでぶいぶい言わせた世代です。きっと、お母さんのお母さんも心配していたことでしょう。僕にも将来息子か娘なんかが出来て、その時どこに住んでるかはわからないけど、夜遅くまで「親不孝通り」みたいなとこで遊び呆けてるんでしょうか。血は争えないのかもしれない、と思います。もっとも、僕は普段は天神でおとなしくしてるので、やっぱりそこまで「親不孝」ではないかもしれませんが。

ま、何が親孝行で何が親不孝かなんてわからないですよね。僕たちの自慢は健康であることです。薬をしていないことだけが自慢で、僕なんかはちょっと太っているけど、健康体です。そうして幸せです。子供が健康で幸せなのが親孝行なのかね…

僕の友達に、真面目なんだけど風俗狂いで、一回中洲にいくと何万も使っていくような奴がいます。あいつは本当に真面目だし、中洲で何万も使えるんなら幸せなんでしょう、つまり最高の親孝行野郎ですね。理論上は。

…親孝行ってなんなんだろう。

2014年5月5日月曜日

人間はなぜ旅に出る?

知るか。

道具を使えるのは人間だけだってよく言うけど、動物だって旅はするんだよ。アホウドリとかさ。
で、人間だけが出来る旅っていうのはどういうものかっていうと、電車にくそまじめに座って目的地につくような旅。
もちろんネズミとかゴキだって電車に乗って遠く離れたとこに出かけたりすることだってあるけど、あいつらがちゃんとした目的を持って東海道本線各駅停車の熱海行きに乗ってるとは思えない。きっと心細いだろうよ。品川の高級住宅街で何不自由なく生活してたのに、ちょっと電車に乗ってみちゃっただけで気がついたらよくわからない温泉地なんかにいるんだから。ゴキは温泉に入れないから、ただの田舎なんだよゴキにとって熱海っていうのは。

何の話だったっけ。

そうそう、旅行の話だ。
でも眠いからやめるね。さよなら。


2014年3月7日金曜日

ブログって心底面倒なシステムだよね。月イチ更新で十分だわ。

 東西に長く伸びた商店街があるんだ。古き良き、とまでは言えないが、それでも日本にはかつてこんな街があった、って思わせるような、心あたたまる街だ。

 長い長いその商店街は、ちょうど真ん中で私鉄の踏切に分断されてる。踏切の東側にはそれぞれ薬屋と床屋があって、薬屋にはカエルが置いてある。床屋にはあのぐるぐるがある。

 踏切の西側には喫茶店とパン屋。またその喫茶店というのが、本当に「喫茶店」なんだ。絶対にカフェなんかとは言わせない。キーコーヒーの看板があって、その横にはホコリをかぶった信楽焼のたぬきがいる。鼻にはやる気のない字でOpenって書かれた看板がぶらさがってるんだ。

 そうして中に入ったら入ったで、またやる気のなさそうなマスターがいる。長い髪の毛をヘアバンドで一つにくくって、いっつも皿を拭いてる。客がいなくても拭いてる。あんだけこすってりゃ、いつかなくなっちまうぜってのが常連たちのお気に入りの冗談なんだ。
 
 いっつもだいたい「ビートルズ・オルゴール・メドレー」か、ボズ・スキャッグスの「ウィー・アー・オール・アローン」が流れてるんだ。きっとマスターの思い出の曲なんだろうね。

 音楽もそんな感じなら、コーヒーも至って普通。うまくもなけりゃまずくもない。ナポリタンだって、わざとらしい喫茶店のナポリタン、って感じで、とりたてて騒ぐこともない。

 そうしてとくになんの感動もなく食事を終えて、喫茶店を出るんだ。踏切を渡って、夕日が傾いてきた商店街を歩く。やがて高台につく。そうやって、長い坂を登って見下ろした街に、君と歩いて行く道を探すんだ。

 ここまで打って気づいたけど、やっぱ彼女いないとどうしようもないんやね。クソして寝よ。

2014年2月2日日曜日

ユーモアとはなんぞや




このCM、俺結構好きだったんだけど、放送中止になったらしい。高い鼻・金髪っていう「白人」のステレオタイプなイメージが、どうも人種差別につながると批判を受けているようで。

うーむ。
何事にも超えちゃいけないラインってものがあるんだろうけど、俺にはイマイチそれがよくわからない。

外国人が映画とかで日本人とかを出すとき、もちろん最近は幾分マシになったんだろうけど、だいたいはメガネで痩せてて出っ歯でカメラをぶら下げてて、ひどいときにはことあるごとにハラキリするし、チョンマゲ軍服を着てて、挙げ句の果てに名前がキムだったりする。それ自体は差別とかじゃなくて、ステレオタイプを描写するってことの一環なのだ。(まあ最後の四つはどうかと思うけど)

そして、日本人がハリウッドに「俺たちはこんなんじゃない、そういう描き方は人種差別だ」って訴えても、たぶん彼らは耳を貸さない。それどころか、どこかの新聞に「批判する日本人」みたいな風刺画なんかを載せられるのがオチだろう。

長いものには巻かれる、風にはすぐしなる柳みたいな、そんな日本人のイメージ。

一番アレなのは、「日本人のイメージ変えちゃおうぜ」って言ってるCMを、日本人らしく批判を受けたらすぐに放送中止にしちゃったこと。日本人のイメージ通りの結果に終わるという、なんとも皮肉な結末でした。ちゃんちゃん。

2014年1月23日木曜日

レゾンデートル

フランス語で「存在価値」って意味です。

このブログに存在価値なんてものはミジンコほどもありません。
じゃあなんで作ったか。

Remembers High.
全てはタイトルの通り。

人間は何かを覚えながら生きます。
英単語、公式、夕飯の買い物の伝言。

そして何かを覚えるってのは忘れることでもあります。

新しい夢を見るために昨夜の夢は忘れる。
新しい恋愛をするために昔の恋人のことは忘れる。
新しい歌を歌うために去年の流行歌のフレーズは忘れる。

悲しいことではないですか。
今日の朝はあんなに楽しそうに今日見た夢のことを話してたっていうのに。

悲しいことではないですか。
先月の夜はあんなに幸せそうに二人並んで歩いてたっていうのに。

悲しいことではないですか。
去年の夏はみんな浜辺でその歌を歌って浜辺で踊り狂ってたっていうのに。

だから、このブログを作りました。備忘録です。これさえあれば、Googleが破産しない限り、いくらでも忘れられる。

Remembers High.
色々なことをこいつに覚えさせておきましょう。
ときたま思い出せばそれでいいです。

更新通知はするけど、石にかじりついてでも読め!だなんて言いません。もちろんのことだけど。

出来事のサラダボウルみたいな日記帳を、机の上に開きっぱなしで置いてる。それだけの話です。

これから色んな覚えておきたいこととか、楽しかったこととか、懐かしいこととか、書こうと思います。覚えるためじゃなくて、思い出すためにね。



さて。そろそろ本職の受験生のほうに戻りますかね。さよなら。

2014年1月22日水曜日

ブログを始めました。

確かに始めたよ、でもまだ受験終わってないから邪魔しないでほしい。

▲昨年のバカンスでのぼく