こうやって地元に帰って、久しぶりに(とは言っても日本シリーズのときに帰ってるからふた月ぶりではあるけれど)実家のベットで横になっていると、なんだかなおさら自分がいるべき場所がどこなのかわからなくなってしまいます。
だからそこまで久しぶりではないと言っても、色々と変わっているものはあります。
地下鉄の電光掲示板とアナウンスが新しくなっていました。天神のパルコには新館ができていました。地元の駅はリフレッシュ工事で階段が狭くなっていました。実家の洗濯カゴは、僕がいなくなってから小さくなっていました。体重計も、昔の液晶の映りが薄いやつではなく、もっと本体が薄くて軽いものになっていました。おばあちゃんやおじいちゃんは、きちんとアレの使い方をわかっているのでしょうか。
色々なものが変わっていきます。そういえば、小学四年生(!)のときに未来の自分への手紙を書いたのを覚えていますか。今となっては開けたくない気持ちでいっぱいです。10歳の自分は、10年の間に人がどれだけ変わっているかをわかっていないだろうから。
15歳になるとだいたいのことはわかると思います。高校を卒業したときに、僕はすっかり忘れていたけれど入学したときに書いた手紙を渡されて、開けた一行目が「無事3年で卒業できましたか」と書いてあって吹き出したのさえ、もう懐かしい思い出です。停学になりかけたり寮を追い出されたり、色々なことがあって、またあと少し間違えたら留年していた自分の状況を考えると、15歳の時の自分はすごく自己理解が足りていたと思えます。
でも、10歳の自分は違う。絶対に残酷です。たかが半年いなかっただけでこのちっぽけな街でさえ変わってしまうのだから、人間が10年経って変わらないはずがないでしょうに。
10年前の自分がどんなことを考えてて、また10年後の自分にどんな自分になってほしかったのか、知りたさ半分怖さ半分……。
でも変わっていくってことは、楽しいことでもあります。だって、昔の自分に今の自分を自慢するのってめちゃくちゃ楽しいでしょう。
今の俺はこれこれこうこうで〜って言って、すごい!って言われるの。
でも(今日は逆説が多いな)そうやって昔の自分と変わっていくっていうのは、確実に何かを忘れなきゃいけない。忘れないと、前には進めない。恋人のことから、夕飯の買い物のことまで。昔の恋人のことを引きずりながら新しい恋人は作れないし、昨日のカレーを引きずって今日の買い物をしちゃうと、いいとこ肉じゃがくらいしか作れなくなってしまう。
もちろん、何かを忘れるというのは寂しい作業で、でも美しい作業でもあります。もう開けないってわかってるけど、なんとなく捨てずらいものたちを、段ボールにしまってベッドの下に置いとくような、罪悪感と昔への憧れの混じったような、そんな気持ち。
だから今、実家に帰って、10年近く使ってるベットで中学の卒業アルバムを眺めています。3年間の時間がこのアルバムの中を流れていて、今と同じものなんて少しもないです。変わったものばかり。
昔使ってたデニム生地の筆箱とか、書道セットとか、もう死んじゃった体育の先生とか、色んなものが写ってて、そのうちのいくつかはもう二度と会えない。今まだ会えるものでさえ、10年後にまだ会えるかって言われると、それも今はわからない。当たり前のことだけれど。
でも、こうやって今日アルバムを眺めて、いくつかのことを思い出せた。だからこうやって、10年後にこの手紙めいたものを自分が読んだときに色々なものを思い出せるように、こうやって今文章を書いています。
返事はいりません。