2016年12月31日土曜日

2016年が永遠に続けば

2016年最後の投稿になるだろう。

ハロウィンが終わると、クリスマスがすぐにやってくる。クリスマスが終わると、イルミネーションが片付く暇もないまま、すぐに新しい年がやってくる。

そして、もうその年は、地球上から永遠に失われてしまう。本当に永遠に。
二度とやってくることはない。
年の瀬を迎えて、年始の準備をして、風呂に浸かり、いつもより念入りに身体を洗ったりして、紅白を見る。そのとき、ぼくたちは「終わり」についてことさら意識させられるわけだけど、
そうやって「もう終わるよ!」とお知らせしてもらえるんだからよっぽど親切だ。

人生最後の走り高跳びのことについて覚えてる人はどれだけいるだろう。
たいてい高校の頃のことだと思うけど、「じゃあ来週からはハードル走ね」なんて言われて、あ、そうなのね、なんて思う。そうして高校を出て気付くのだけど、高校を出ると驚くほど人間は走り高跳びから遠ざかってしまう。極端なことを言えば、走り高跳びのことなんて忘れてしまう人だっている(僕はもう走り高跳びのやり方を半分くらい忘れているかもしれない)。

不親切だ。「これはきっと、君たちにとって人生で最後の走り高跳びになるだろう」なんて先生から言われていれば、背面跳びまでは出来なくてもベリーロールくらいには挑戦していただろう。でも実際は違う。走り高跳びは、思った以上に静かに終わってしまう。
言ってしまえばそんなもんなのかもしれないが。

あまり大きなことは言いたくないけど、人生ってそんなもんなのかもしれない。2016年ほど、ゆっくりと時間をかけて大々的に終わってしまうものでもなさそうだ。明日死ぬかもしれない。そんなこと誰にもわからない。だから2017年は、「これが人生最後の喫煙だ」「これが人生最後の飲酒だ」と思ってやることにする。そうすればゆっくりと時間をかけて味わえるだろうから経済的だ。

さて、それでは正真正銘の2016年最後のお酒を飲むことにする。今年もどうもお世話様でした。

2016年11月29日火曜日

愛じゃなくても

愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない、とはよく言ったものだと思う。愛してる人は離さないし、恋してる人は離したくない。そしたら、愛じゃなくても恋じゃなくても離さない人って、どんな関係なんだろう。

一緒に生きていける人なんて正直な話いくらでもいると思う。好きなものは何か、どこに住んでいるのか、今までで一番楽しかったことは?悲しかったことは?好きなアーティストは?昨日何食べた?俺のことが好き?色々な疑問を解消していって、ある程度疑問が無くなった時にその人と生きる「覚悟」が出来るんだと思う。こいつとなら生きていける、そうとでも思わない限り、無駄にも思えるくらい多くの質問なんてしないだろうから。

とんでもないことを書くが、俺はみんな大好きだ。無論女の子に関しては性的に好きだという側面もある。男にはない。それでも、俺は、君たちが、好きだ。胸を張って言える。少なくとも、この駄文を読んでくれる君たちのことを俺は嫌いになれない。もちろん、この文章を読んでる人となら共に生きていけるかと言われると、全員が全員そうとは限らない。俺はわりと多くのタバコを吸う。上から目線の言い方にはなるが、それを我慢してくれない人とは、どれだけ好きでも一緒に生きられない。俺がタバコを我慢しない以上、俺には一緒に生きていく資格すらないのだと思う。ただ、誤解しないでほしいのは、俺がその人よりもタバコのほうが好きだとか、その人よりもタバコを選んだだとか、そういうことではないのだ。だってそうだろ、人間はタバコと結婚できないし、彼女に火をつけて吸うわけにはいかないんだから。

話を戻す。生きていく上で大切なのは「すり合わせ」だと思う。お互いのことを知り、考え、そうやって一緒に日々を浪費していく。はっきり言って最高だ。ただ、なかなかその段階まで進む人というのは珍しい。これはいつも言っていることだが、俺たちがどういう輪廻転生を経てこの世に生を受けたのか知らないが、ニンゲンとして生まれた以上、学生としての本分が勉学なら、動物としての本分は子孫を残すことであり、それは即ちセックスのことである。極端な話をするが、男と女がいればそれだけで話は終わる。
しかし、共に生きていくとなると話は別だ。付き合う、ともいうが、男と女がいるからって話は終わらない。かと思えば、男と男、女と女で話が終わることだってある。

「モグラのカップル」についての話を聞いたことあるだろうか。それじゃあ「チベットスナギツネのカップル」については?きっとないだろう。僕もない。それじゃあ「マレーバクの交尾」は?僕は目の前で見たことがある。何が言いたいかというと、共同生活としてカップルを組むのは人間に残された最後の意地なのだ。セックスは動物でもできる。結婚となると話は別だ。共に生きていくというのはそういうことだ。

話ははじめに戻る。「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」というのは、やっぱり奇妙な話だ。一つだけ言えるのは、それは愛より恋よりも綺麗かつ深い話だ、ということだ。
一緒に生きていくのは簡単だ。でもそれは、愛だし恋だ。

逆を考えてほしい。「一緒に死ねる」人ってどれだけいるだろう。愛して恋してる人は、いつまでも一緒にいたい。生きていてほしい。せめて自分が先に死にたい。一緒に死ぬのは、愛でも恋でもない。愛や恋なら、決して死んでほしくないからだ。それでも、この関係は何よりも深くて、何よりも潔いと思う。そんな人、80年の人生のうちに見つかったら幸運だ。

愛でもないが、恋でもない。それでも、その人を決して離さずに二人で朽ち果てていく。そんな人、これからの人生で見つかるのだろうか。

朝まで二人で過ごして、帰り道に自転車の後ろに女の子を乗せる。何かを感じて、Yes I can!と叫ぶ。そうして後ろからダンプに突っ込まれる。それでも、そのまま死んでもなんの後悔もしない。そんな想いがこれからの人生で何度できるだろう。一度も出来なくてもおかしくはない。だからこそ、俺はそれを探したい。もし俺がそのまま死んだなら、俺と一緒に生きてきてくれた人たちは、俺のことを好きじゃなくてもいいから忘れないでほしい。

余談だが、今の状況としては俺の横では男が高いびきを書いて寝ている。ここまでこの文章を書いてだいぶ遺書チックにすらなってしまったが、俺は一緒に死ぬのがこのムサい男になるのは嫌だ。もしそうなったら絶対に成仏しない。一生かけて(幽霊の一生がどれくらいなのか僕は知らない)お前らを呪ってやるからな。合掌。

2016年10月6日木曜日

明けない夜をよこせ

21歳になった。この街に住み始めてから3年経ち、お酒を飲むようになってから1年経つ。

1年間、この街で文字どおり泥のように酔ったり(もちろん吐く日もある)、ほろ酔いになったりした。芸術学部に通ってこそいるが、自信を持って「これは俺が作った作品だ」と言えるのは、山のような吸殻と綺麗に便器に収まったゲロくらいのものだ。
そうやって朝まで働いたり酩酊したりということをこの街で繰り返した。
今住んでいるところは面白い街で、池袋から3駅7分、新宿とか渋谷まで地下鉄で20分で行けちゃうものだから、もちろん住宅が立ち並ぶ言うなら住宅街である。
それでも「閑静」という言葉とは程遠くて、商店街であったり飲み屋街であったり、そんな「雑多」な街並みも多い。傾向的には駅の南口が飲み屋街、北口は住宅街、といった感じだ。アメリカで言うところのWestsideとEastsideみたいなものだ。この街の東海岸と西海岸は綺麗に西武池袋線の線路で分断されている。

だいぶ日も短くなってきた。不思議なもので、夏至は全く夏本番とは言えない時期にやってくる。一年で一番昼が長い日は、今年は6月21日だったそうだ。まだ梅雨明けを待っているくらいの頃合いだ。8月の嫌になるほど早く上る朝日だって、もう秋に向かって全速力で駆け抜けているのだ。それでも冬至は毎年12月22日ごろだそうで、もういい加減に寒くなって、南の方でも雪がちらつくことだってあるだろう。一年で一番夜が長い日に向かって、また今度は秋を駆け抜けているところだ。

5時にお店を閉めて、様々な片付けをして店を出るとき、まだ暗かった。
お店を閉めて、それじゃあお酒を飲みに行きましょうかね、となる。そうしてだいたい近場のカラオケスナックのようなお店に行く。(本当はカツ丼屋さんなんだけど、最近よくわからない。)そうしてそこで店長とカラオケをしたり酒を飲んだりして、お店を出るのは最終的に7時だ。

そうして話は最初に戻る。
夜の街には、酔っ払いしかいない。多かれ少なかれ、みんな酔っている。店を閉めて、お酒を飲む。そうして7時ごろにそのお店を出ると、今度は街にはOLや女子高生がひしめいていて(もちろん男だっているんだろうけど脳が情報をシャットアウトしている)びっくりする。この街にこんなにシラフの人がいるだなんて!と思う。

でもたぶんだけど、僕らの方が置いていかれてるんだろうな。
僕は酔っ払うと顔に出るタイプで、大して言動は変わらないのだが顔が真っ赤になる。だから、恥ずかしくて暗いところでしか飲めない。
そういうわけで、酔って朝のこの街を歩いていると、たまにOLの人たちや女子高生から心底見下したような目で見られる。でも仕方ないじゃない。まさか朝が来るだなんて思っていなかったんだから。

この場合、邪魔したのはどっちなんだろう。その人の朝に、僕の夜が踏み込んだのか。それとも、僕の夜に、その人の朝が踏み込んだのか。

「黄昏時」というものがある。夕方の少し薄暗くなってきたくらいの時間のことだ。「誰ぞ彼」と問わないと、向かいにいる人が誰かわからないからだ。
朝はその逆で、「彼は誰時」と言う。かわたれとき、と読む。ちょうど、お店を移ってお酒を飲んでいる時のような時間だ。もうその時間にお酒を飲んでいる人はだいたい真剣に酔っ払っているから、いくら明るいお店でも「あの人は誰?」とマスターに聞かなきゃわからないだろう。確かに「彼は誰時」と言えなくもない。

こんな言葉を聞いた。中島らもさんの「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」より

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ただこうして生きてきてみると
わかるのだが、

めったにはない、
何十年に一回くらいしか
ないかもしれないが、

「生きていてよかった」
と思う夜がある。

一度でもそういうことがあれば、
その思いだけがあれば、

あとはゴミクズみたいな
日々であっても生きていける。
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僕は、そんな夜を探して生きていきたい。一生朝まで酔って歌っていたい。そんな夜を探しながら、そう思いながら、毎日僕は彼は誰時を迎える。朝の人たちの邪魔をしないように、道の端っこを歩きながら、すごすごと家に帰る。

文章を書くことは、現実逃避の一つだと思う。僕は今、もちろん酔っている。そうして散らかった部屋で山積みの洗濯物と仲良く暮らしながら、この文章を書いている。誰かお願いだから部屋の掃除を手伝ってくれ!