文芸学科でこそあるけれど、本はそんなに読まないし、例えば「今月は何冊読もう
」とかそういうのがない人間です。本は基本的に電車なり風呂なり、そういう場所で読むので、不可抗力で読んでるような節はあります。本でも読んでないと時間が潰れないような、そんな状況。電車の中で走ったって行きたいところに早く着くわけでもなければ、風呂に大急ぎで入ったところで身体が温まることもありません。
だから、ああ本が読みたい!ってなる状況がそんなにありません。でも、この文章を書いているたった今、俺は本が読みたくて仕方ありません。
今、女の子が横で寝息をたてています。すーすー言っています。だからどうしたって話なんだけど、明かりをつけることもできなければ、ふとんから出るわけにもいかないんです。だから、こんなにも本が読みたい(こういう日は一年に一度くらいしかこない)のに、本を読むことはできないんです。でも、人間の欲求だったり願いだったりっていうのは、だいたいそういうものなんだと思います。叶えられる願いなのに、叶わない。普段なら簡単に出来ることなのに、タイミングのせいで出来ない。だからこそ欲求は欲求なのかもしれないけれど。
何はともあれ。
大学に入ってから、隠していたことがありまして。
隠していたといっても、わざわざ自分から言うようなことでもないし、きかれなかったから言わなかっただけだけど、俺タオルケットがないと眠れなかったんですよ、このまえまで。
まだ俺が実家にいたころは、黄色いタオルを毎日抱きしめて寝てました。本当に生地も薄くなって、今にも千切れそうなタオルがあって、それを。
いくつのころからなんだろう、それさえ思い出せないくらいの大昔からそのタオルと寝てました。たとえばスヌーピーに出てくるライナスが持ってる毛布みたいな、あんな調子です。
俺はそれのことを「おはなんと」と呼んでいました。おはなんと、って言うのは博多の方言で、「花の」って意味です。そうしてその名の通り、黄色い花柄のタオルでした。長方形のタオルで、そのうちの一個の頂点が本当に大好きで、毎日そこをいじくりながら寝ていたので、その一個の頂点だけがもう擦り切れてなくなりそうな勢いです。
一度おじいちゃんおばあちゃんと旅行に行った時に……確か、幼稚園の園長さんのころです。おはなんとがないと寝れないし、でもタオルを持っていくのも失くしそうで不安だったし、そうして思いついたのが、その最高に大好きな頂点だけを切り取って持っていく、というわけのわからない策でした。タオルを持っていくよりもそっちのほうがよっぽど失くしそうなのに、結局おばあちゃんに裁ちばさみで切ってもらって、そこだけを持って行きました。
きちんと失くさずにまた家に持って帰れて、きちんと元に戻してもらいました。元に戻す、と言っても、ひいおばあちゃんに縫ってもらったんですが。
ひいおばあちゃんは洋裁がとてもじょうずだったので、ハギレの箱からガーゼハンカチを出して、それで元よりももっと丈夫に縫い直してもらいました。
そうしてしばらくして、ひいおばあちゃんは亡くなってしまいました。その日のこともはっきりと思い出せます。幼稚園のころのことで思い出せるのなんて、初めて女の子の裸を見た時とそのことくらいなものです。
結局そのおはなんととガーゼハンカチは、ひいおばあちゃんの形見めいたものになってしまいました。
それからしばらく俺は、強烈な死生観の悩みに巻き込まれていきます。人は死んだらどこに行くのか、死んだらおはなんとをどうしようか、火葬は痛くないか、どう考えてもあんなの痛いに決まってる、絶対に死にたくないしこれ以上大事な人を亡くしたくない、と、この調子が一年かそこら続きました。今思えば、火葬は熱いから土葬にしてくれと騒ぐ小学生だなんて本当にどうかしてる。でも、自分がこの世に生を受けてはじめて、近い人がこの世から去って行くってのは、あんまりにそういうことだったのです。
結局おはなんとからは離れられず、時は流れて高校生になります。高校生になっても、未だに毎日おはなんとを抱きしめて眠って、たまに洗濯をおばあちゃんがしてる日には、俺の部屋がある一階から階段を上って二階の祖父母の部屋に言って、「おばあちゃーん、おはなんと洗濯しとー?」と、起こして聞く始末。
そんな俺に転機が訪れます。上京です。
もう大学生になるんだし、と思って、おはなんとは実家に置いていくことにしました。結局上京した俺は、おはなんと無しでなんとなく物足りない夜を過ごしていたわけですが、そうして夏休みに帰省して、久々に実家の布団で眠る、となって、ついに感動の再会を果たしました。
おせんべの箱みたいなやつに入れておいたので、何ヶ月かぶりにそれを開いて、そして広げてみて、思いました。
小さい。
おはなんとは、俺が思ってた以上に小さかったのです。小さくて、色褪せてて、生地もぼろぼろで向こうが透けて見えるほど薄くなっていて。
小さなころ、自分の身体をすっぽり包み込んでくれていた、安心感の象徴みたいだったおはなんとは、もうなかったのです。今はもう、本当に小さくて、抱きしめていないとすぐにどこかへ行ってしまいそうな、小さな小さな布切れでした。そんなおはなんとを、俺は抱きしめて寝ました。絶対にどこにもいかないように、うずくまって、抱きしめて。
今でも帰省する度に、おはなんとを抱きしめて寝ています。
守られるものから守るものになってしまって、もう俺もあんまり子供ヅラばっかりして逃げてるわけにもいかねえな、と思いました。誰かの「おはなんと」みたいな存在に、俺はなれないかもしれません。そこまで誰かを守ることを支えることも安心させることもできないかもしれない。
俺は、一生小さなタオルさえ超えられずに死んでいくのかもしれないし、でも、俺はその小さなタオルを超えようと思うことさえおこがましいのかもしれないと思いもします。
決しておはなんとを超えようとは思わないので、でもせめてあれくらい人を穏やかな眠りにつかせるくらいの安心感を与えられる人間になって死にたいものです。