2016年12月31日土曜日

2016年が永遠に続けば

2016年最後の投稿になるだろう。

ハロウィンが終わると、クリスマスがすぐにやってくる。クリスマスが終わると、イルミネーションが片付く暇もないまま、すぐに新しい年がやってくる。

そして、もうその年は、地球上から永遠に失われてしまう。本当に永遠に。
二度とやってくることはない。
年の瀬を迎えて、年始の準備をして、風呂に浸かり、いつもより念入りに身体を洗ったりして、紅白を見る。そのとき、ぼくたちは「終わり」についてことさら意識させられるわけだけど、
そうやって「もう終わるよ!」とお知らせしてもらえるんだからよっぽど親切だ。

人生最後の走り高跳びのことについて覚えてる人はどれだけいるだろう。
たいてい高校の頃のことだと思うけど、「じゃあ来週からはハードル走ね」なんて言われて、あ、そうなのね、なんて思う。そうして高校を出て気付くのだけど、高校を出ると驚くほど人間は走り高跳びから遠ざかってしまう。極端なことを言えば、走り高跳びのことなんて忘れてしまう人だっている(僕はもう走り高跳びのやり方を半分くらい忘れているかもしれない)。

不親切だ。「これはきっと、君たちにとって人生で最後の走り高跳びになるだろう」なんて先生から言われていれば、背面跳びまでは出来なくてもベリーロールくらいには挑戦していただろう。でも実際は違う。走り高跳びは、思った以上に静かに終わってしまう。
言ってしまえばそんなもんなのかもしれないが。

あまり大きなことは言いたくないけど、人生ってそんなもんなのかもしれない。2016年ほど、ゆっくりと時間をかけて大々的に終わってしまうものでもなさそうだ。明日死ぬかもしれない。そんなこと誰にもわからない。だから2017年は、「これが人生最後の喫煙だ」「これが人生最後の飲酒だ」と思ってやることにする。そうすればゆっくりと時間をかけて味わえるだろうから経済的だ。

さて、それでは正真正銘の2016年最後のお酒を飲むことにする。今年もどうもお世話様でした。

2016年11月29日火曜日

愛じゃなくても

愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない、とはよく言ったものだと思う。愛してる人は離さないし、恋してる人は離したくない。そしたら、愛じゃなくても恋じゃなくても離さない人って、どんな関係なんだろう。

一緒に生きていける人なんて正直な話いくらでもいると思う。好きなものは何か、どこに住んでいるのか、今までで一番楽しかったことは?悲しかったことは?好きなアーティストは?昨日何食べた?俺のことが好き?色々な疑問を解消していって、ある程度疑問が無くなった時にその人と生きる「覚悟」が出来るんだと思う。こいつとなら生きていける、そうとでも思わない限り、無駄にも思えるくらい多くの質問なんてしないだろうから。

とんでもないことを書くが、俺はみんな大好きだ。無論女の子に関しては性的に好きだという側面もある。男にはない。それでも、俺は、君たちが、好きだ。胸を張って言える。少なくとも、この駄文を読んでくれる君たちのことを俺は嫌いになれない。もちろん、この文章を読んでる人となら共に生きていけるかと言われると、全員が全員そうとは限らない。俺はわりと多くのタバコを吸う。上から目線の言い方にはなるが、それを我慢してくれない人とは、どれだけ好きでも一緒に生きられない。俺がタバコを我慢しない以上、俺には一緒に生きていく資格すらないのだと思う。ただ、誤解しないでほしいのは、俺がその人よりもタバコのほうが好きだとか、その人よりもタバコを選んだだとか、そういうことではないのだ。だってそうだろ、人間はタバコと結婚できないし、彼女に火をつけて吸うわけにはいかないんだから。

話を戻す。生きていく上で大切なのは「すり合わせ」だと思う。お互いのことを知り、考え、そうやって一緒に日々を浪費していく。はっきり言って最高だ。ただ、なかなかその段階まで進む人というのは珍しい。これはいつも言っていることだが、俺たちがどういう輪廻転生を経てこの世に生を受けたのか知らないが、ニンゲンとして生まれた以上、学生としての本分が勉学なら、動物としての本分は子孫を残すことであり、それは即ちセックスのことである。極端な話をするが、男と女がいればそれだけで話は終わる。
しかし、共に生きていくとなると話は別だ。付き合う、ともいうが、男と女がいるからって話は終わらない。かと思えば、男と男、女と女で話が終わることだってある。

「モグラのカップル」についての話を聞いたことあるだろうか。それじゃあ「チベットスナギツネのカップル」については?きっとないだろう。僕もない。それじゃあ「マレーバクの交尾」は?僕は目の前で見たことがある。何が言いたいかというと、共同生活としてカップルを組むのは人間に残された最後の意地なのだ。セックスは動物でもできる。結婚となると話は別だ。共に生きていくというのはそういうことだ。

話ははじめに戻る。「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」というのは、やっぱり奇妙な話だ。一つだけ言えるのは、それは愛より恋よりも綺麗かつ深い話だ、ということだ。
一緒に生きていくのは簡単だ。でもそれは、愛だし恋だ。

逆を考えてほしい。「一緒に死ねる」人ってどれだけいるだろう。愛して恋してる人は、いつまでも一緒にいたい。生きていてほしい。せめて自分が先に死にたい。一緒に死ぬのは、愛でも恋でもない。愛や恋なら、決して死んでほしくないからだ。それでも、この関係は何よりも深くて、何よりも潔いと思う。そんな人、80年の人生のうちに見つかったら幸運だ。

愛でもないが、恋でもない。それでも、その人を決して離さずに二人で朽ち果てていく。そんな人、これからの人生で見つかるのだろうか。

朝まで二人で過ごして、帰り道に自転車の後ろに女の子を乗せる。何かを感じて、Yes I can!と叫ぶ。そうして後ろからダンプに突っ込まれる。それでも、そのまま死んでもなんの後悔もしない。そんな想いがこれからの人生で何度できるだろう。一度も出来なくてもおかしくはない。だからこそ、俺はそれを探したい。もし俺がそのまま死んだなら、俺と一緒に生きてきてくれた人たちは、俺のことを好きじゃなくてもいいから忘れないでほしい。

余談だが、今の状況としては俺の横では男が高いびきを書いて寝ている。ここまでこの文章を書いてだいぶ遺書チックにすらなってしまったが、俺は一緒に死ぬのがこのムサい男になるのは嫌だ。もしそうなったら絶対に成仏しない。一生かけて(幽霊の一生がどれくらいなのか僕は知らない)お前らを呪ってやるからな。合掌。

2016年10月6日木曜日

明けない夜をよこせ

21歳になった。この街に住み始めてから3年経ち、お酒を飲むようになってから1年経つ。

1年間、この街で文字どおり泥のように酔ったり(もちろん吐く日もある)、ほろ酔いになったりした。芸術学部に通ってこそいるが、自信を持って「これは俺が作った作品だ」と言えるのは、山のような吸殻と綺麗に便器に収まったゲロくらいのものだ。
そうやって朝まで働いたり酩酊したりということをこの街で繰り返した。
今住んでいるところは面白い街で、池袋から3駅7分、新宿とか渋谷まで地下鉄で20分で行けちゃうものだから、もちろん住宅が立ち並ぶ言うなら住宅街である。
それでも「閑静」という言葉とは程遠くて、商店街であったり飲み屋街であったり、そんな「雑多」な街並みも多い。傾向的には駅の南口が飲み屋街、北口は住宅街、といった感じだ。アメリカで言うところのWestsideとEastsideみたいなものだ。この街の東海岸と西海岸は綺麗に西武池袋線の線路で分断されている。

だいぶ日も短くなってきた。不思議なもので、夏至は全く夏本番とは言えない時期にやってくる。一年で一番昼が長い日は、今年は6月21日だったそうだ。まだ梅雨明けを待っているくらいの頃合いだ。8月の嫌になるほど早く上る朝日だって、もう秋に向かって全速力で駆け抜けているのだ。それでも冬至は毎年12月22日ごろだそうで、もういい加減に寒くなって、南の方でも雪がちらつくことだってあるだろう。一年で一番夜が長い日に向かって、また今度は秋を駆け抜けているところだ。

5時にお店を閉めて、様々な片付けをして店を出るとき、まだ暗かった。
お店を閉めて、それじゃあお酒を飲みに行きましょうかね、となる。そうしてだいたい近場のカラオケスナックのようなお店に行く。(本当はカツ丼屋さんなんだけど、最近よくわからない。)そうしてそこで店長とカラオケをしたり酒を飲んだりして、お店を出るのは最終的に7時だ。

そうして話は最初に戻る。
夜の街には、酔っ払いしかいない。多かれ少なかれ、みんな酔っている。店を閉めて、お酒を飲む。そうして7時ごろにそのお店を出ると、今度は街にはOLや女子高生がひしめいていて(もちろん男だっているんだろうけど脳が情報をシャットアウトしている)びっくりする。この街にこんなにシラフの人がいるだなんて!と思う。

でもたぶんだけど、僕らの方が置いていかれてるんだろうな。
僕は酔っ払うと顔に出るタイプで、大して言動は変わらないのだが顔が真っ赤になる。だから、恥ずかしくて暗いところでしか飲めない。
そういうわけで、酔って朝のこの街を歩いていると、たまにOLの人たちや女子高生から心底見下したような目で見られる。でも仕方ないじゃない。まさか朝が来るだなんて思っていなかったんだから。

この場合、邪魔したのはどっちなんだろう。その人の朝に、僕の夜が踏み込んだのか。それとも、僕の夜に、その人の朝が踏み込んだのか。

「黄昏時」というものがある。夕方の少し薄暗くなってきたくらいの時間のことだ。「誰ぞ彼」と問わないと、向かいにいる人が誰かわからないからだ。
朝はその逆で、「彼は誰時」と言う。かわたれとき、と読む。ちょうど、お店を移ってお酒を飲んでいる時のような時間だ。もうその時間にお酒を飲んでいる人はだいたい真剣に酔っ払っているから、いくら明るいお店でも「あの人は誰?」とマスターに聞かなきゃわからないだろう。確かに「彼は誰時」と言えなくもない。

こんな言葉を聞いた。中島らもさんの「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」より

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ただこうして生きてきてみると
わかるのだが、

めったにはない、
何十年に一回くらいしか
ないかもしれないが、

「生きていてよかった」
と思う夜がある。

一度でもそういうことがあれば、
その思いだけがあれば、

あとはゴミクズみたいな
日々であっても生きていける。
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僕は、そんな夜を探して生きていきたい。一生朝まで酔って歌っていたい。そんな夜を探しながら、そう思いながら、毎日僕は彼は誰時を迎える。朝の人たちの邪魔をしないように、道の端っこを歩きながら、すごすごと家に帰る。

文章を書くことは、現実逃避の一つだと思う。僕は今、もちろん酔っている。そうして散らかった部屋で山積みの洗濯物と仲良く暮らしながら、この文章を書いている。誰かお願いだから部屋の掃除を手伝ってくれ!

2015年3月31日火曜日

とるにたらないもの

早いもので、上京してから一年が経ちます。
高校では落ちこぼれていたので、ずっと放課後を共にしてた友人たちはみんな浪人をして、ストレートで大学に行ったのは僕だけでした。
もちろん大学でも友達は出来ましたが、それでも心細い思いをすることも何度かありました。
今でこそ東京での一人暮らしには慣れましたが、それでも地元恋しさに季節に一回は福岡に帰っていました。
自分では忘れていないつもりでも、やっぱり覚えていることよりも忘れていることのほうが多いんだと思います。もちろん、言われれば思い出すことはできます。あーあったねーそんなもの、って。でも例えば、この通りのポストってどこだっけとか、あそこの信号は待つ信号だったかなとか、そんな些細なことから順繰りに忘れていきます。そうやって人間として新しいものを覚えていくんだろうな、って思います。

一月ほど帰省していたのですが、お恥ずかしい話、地元のゴミ収集車は「赤とんぼ」のオルゴールを流しながらやってくることを忘れていました。練馬のゴミ収集車は、音もなくやってくる。
もちろんゴミ収集車の音なんて、とるに足らないものです。でも、とるに足らないからこそ、誰よりもそういうものを覚えていたいなと思います。何事にしたって、忘れるより覚えておいたほうがいいでしょう。過去の苦い恋愛だって、その日は忘れたいと思ったって、何年か経って眠れない夜に思い出したりすると、なんとなく懐かしい気持ちの中で眠れるものです。
とるに足らないものを大事にして生きていきたいですね。
そんなわけで、こんなとるに足らないような人間がとるに足らないブログを書いているわけですが、今年度も一年間みなさんお世話になりました。みなさまの素敵な「とるに足らない」ような出会いをお祈りしております。来年度もどうぞよろしく。

2015年2月4日水曜日

冬深し隣の寝息と本とタオルと

文芸学科でこそあるけれど、本はそんなに読まないし、例えば「今月は何冊読もう」とかそういうのがない人間です。本は基本的に電車なり風呂なり、そういう場所で読むので、不可抗力で読んでるような節はあります。
本でも読んでないと時間が潰れないような、そんな状況。電車の中で走ったって行きたいところに早く着くわけでもなければ、風呂に大急ぎで入ったところで身体が温まることもありません。
だから、ああ本が読みたい!ってなる状況がそんなにありません。でも、この文章を書いているたった今、俺は本が読みたくて仕方ありません。

今、女の子が横で寝息をたてています。すーすー言っています。だからどうしたって話なんだけど、明かりをつけることもできなければ、ふとんから出るわけにもいかないんです。だから、こんなにも本が読みたい(こういう日は一年に一度くらいしかこない)のに、本を読むことはできないんです。でも、人間の欲求だったり願いだったりっていうのは、だいたいそういうものなんだと思います。叶えられる願いなのに、叶わない。普段なら簡単に出来ることなのに、タイミングのせいで出来ない。だからこそ欲求は欲求なのかもしれないけれど。

何はともあれ。

大学に入ってから、隠していたことがありまして。
隠していたといっても、わざわざ自分から言うようなことでもないし、きかれなかったから言わなかっただけだけど、俺タオルケットがないと眠れなかったんですよ、このまえまで。

まだ俺が実家にいたころは、黄色いタオルを毎日抱きしめて寝てました。本当に生地も薄くなって、今にも千切れそうなタオルがあって、それを。
いくつのころからなんだろう、それさえ思い出せないくらいの大昔からそのタオルと寝てました。たとえばスヌーピーに出てくるライナスが持ってる毛布みたいな、あんな調子です。
俺はそれのことを「おはなんと」と呼んでいました。おはなんと、って言うのは博多の方言で、「花の」って意味です。そうしてその名の通り、黄色い花柄のタオルでした。長方形のタオルで、そのうちの一個の頂点が本当に大好きで、毎日そこをいじくりながら寝ていたので、その一個の頂点だけがもう擦り切れてなくなりそうな勢いです。

一度おじいちゃんおばあちゃんと旅行に行った時に……確か、幼稚園の園長さんのころです。おはなんとがないと寝れないし、でもタオルを持っていくのも失くしそうで不安だったし、そうして思いついたのが、その最高に大好きな頂点だけを切り取って持っていく、というわけのわからない策でした。タオルを持っていくよりもそっちのほうがよっぽど失くしそうなのに、結局おばあちゃんに裁ちばさみで切ってもらって、そこだけを持って行きました。

きちんと失くさずにまた家に持って帰れて、きちんと元に戻してもらいました。元に戻す、と言っても、ひいおばあちゃんに縫ってもらったんですが。
ひいおばあちゃんは洋裁がとてもじょうずだったので、ハギレの箱からガーゼハンカチを出して、それで元よりももっと丈夫に縫い直してもらいました。

そうしてしばらくして、ひいおばあちゃんは亡くなってしまいました。その日のこともはっきりと思い出せます。幼稚園のころのことで思い出せるのなんて、初めて女の子の裸を見た時とそのことくらいなものです。

結局そのおはなんととガーゼハンカチは、ひいおばあちゃんの形見めいたものになってしまいました。

それからしばらく俺は、強烈な死生観の悩みに巻き込まれていきます。人は死んだらどこに行くのか、死んだらおはなんとをどうしようか、火葬は痛くないか、どう考えてもあんなの痛いに決まってる、絶対に死にたくないしこれ以上大事な人を亡くしたくない、と、この調子が一年かそこら続きました。今思えば、火葬は熱いから土葬にしてくれと騒ぐ小学生だなんて本当にどうかしてる。でも、自分がこの世に生を受けてはじめて、近い人がこの世から去って行くってのは、あんまりにそういうことだったのです。

結局おはなんとからは離れられず、時は流れて高校生になります。高校生になっても、未だに毎日おはなんとを抱きしめて眠って、たまに洗濯をおばあちゃんがしてる日には、俺の部屋がある一階から階段を上って二階の祖父母の部屋に言って、「おばあちゃーん、おはなんと洗濯しとー?」と、起こして聞く始末。

そんな俺に転機が訪れます。上京です。
もう大学生になるんだし、と思って、おはなんとは実家に置いていくことにしました。結局上京した俺は、おはなんと無しでなんとなく物足りない夜を過ごしていたわけですが、そうして夏休みに帰省して、久々に実家の布団で眠る、となって、ついに感動の再会を果たしました。

おせんべの箱みたいなやつに入れておいたので、何ヶ月かぶりにそれを開いて、そして広げてみて、思いました。

小さい。

おはなんとは、俺が思ってた以上に小さかったのです。小さくて、色褪せてて、生地もぼろぼろで向こうが透けて見えるほど薄くなっていて。
小さなころ、自分の身体をすっぽり包み込んでくれていた、安心感の象徴みたいだったおはなんとは、もうなかったのです。今はもう、本当に小さくて、抱きしめていないとすぐにどこかへ行ってしまいそうな、小さな小さな布切れでした。そんなおはなんとを、俺は抱きしめて寝ました。絶対にどこにもいかないように、うずくまって、抱きしめて。
今でも帰省する度に、おはなんとを抱きしめて寝ています。

守られるものから守るものになってしまって、もう俺もあんまり子供ヅラばっかりして逃げてるわけにもいかねえな、と思いました。誰かの「おはなんと」みたいな存在に、俺はなれないかもしれません。そこまで誰かを守ることを支えることも安心させることもできないかもしれない。

俺は、一生小さなタオルさえ超えられずに死んでいくのかもしれないし、でも、俺はその小さなタオルを超えようと思うことさえおこがましいのかもしれないと思いもします。

決しておはなんとを超えようとは思わないので、でもせめてあれくらい人を穏やかな眠りにつかせるくらいの安心感を与えられる人間になって死にたいものです。

2014年12月26日金曜日

冬の夜の夢、風の前の塵

ただいま。

こうやって地元に帰って、久しぶりに(とは言っても日本シリーズのときに帰ってるからふた月ぶりではあるけれど)実家のベットで横になっていると、なんだかなおさら自分がいるべき場所がどこなのかわからなくなってしまいます。

だからそこまで久しぶりではないと言っても、色々と変わっているものはあります。

地下鉄の電光掲示板とアナウンスが新しくなっていました。天神のパルコには新館ができていました。地元の駅はリフレッシュ工事で階段が狭くなっていました。実家の洗濯カゴは、僕がいなくなってから小さくなっていました。体重計も、昔の液晶の映りが薄いやつではなく、もっと本体が薄くて軽いものになっていました。おばあちゃんやおじいちゃんは、きちんとアレの使い方をわかっているのでしょうか。

色々なものが変わっていきます。そういえば、小学四年生(!)のときに未来の自分への手紙を書いたのを覚えていますか。今となっては開けたくない気持ちでいっぱいです。10歳の自分は、10年の間に人がどれだけ変わっているかをわかっていないだろうから。

15歳になるとだいたいのことはわかると思います。高校を卒業したときに、僕はすっかり忘れていたけれど入学したときに書いた手紙を渡されて、開けた一行目が「無事3年で卒業できましたか」と書いてあって吹き出したのさえ、もう懐かしい思い出です。停学になりかけたり寮を追い出されたり、色々なことがあって、またあと少し間違えたら留年していた自分の状況を考えると、15歳の時の自分はすごく自己理解が足りていたと思えます。

でも、10歳の自分は違う。絶対に残酷です。たかが半年いなかっただけでこのちっぽけな街でさえ変わってしまうのだから、人間が10年経って変わらないはずがないでしょうに。

10年前の自分がどんなことを考えてて、また10年後の自分にどんな自分になってほしかったのか、知りたさ半分怖さ半分……。

でも変わっていくってことは、楽しいことでもあります。だって、昔の自分に今の自分を自慢するのってめちゃくちゃ楽しいでしょう。
今の俺はこれこれこうこうで〜って言って、すごい!って言われるの。

でも(今日は逆説が多いな)そうやって昔の自分と変わっていくっていうのは、確実に何かを忘れなきゃいけない。忘れないと、前には進めない。恋人のことから、夕飯の買い物のことまで。昔の恋人のことを引きずりながら新しい恋人は作れないし、昨日のカレーを引きずって今日の買い物をしちゃうと、いいとこ肉じゃがくらいしか作れなくなってしまう。

もちろん、何かを忘れるというのは寂しい作業で、でも美しい作業でもあります。もう開けないってわかってるけど、なんとなく捨てずらいものたちを、段ボールにしまってベッドの下に置いとくような、罪悪感と昔への憧れの混じったような、そんな気持ち。

だから今、実家に帰って、10年近く使ってるベットで中学の卒業アルバムを眺めています。3年間の時間がこのアルバムの中を流れていて、今と同じものなんて少しもないです。変わったものばかり。
昔使ってたデニム生地の筆箱とか、書道セットとか、もう死んじゃった体育の先生とか、色んなものが写ってて、そのうちのいくつかはもう二度と会えない。今まだ会えるものでさえ、10年後にまだ会えるかって言われると、それも今はわからない。当たり前のことだけれど。

でも、こうやって今日アルバムを眺めて、いくつかのことを思い出せた。だからこうやって、10年後にこの手紙めいたものを自分が読んだときに色々なものを思い出せるように、こうやって今文章を書いています。
返事はいりません。

2014年11月27日木曜日

綺麗は汚い、汚いは綺麗

このフレーズには聞き覚えがあるが、いったいどこで聞いたものだかは忘れてしまった。
そうしてなんでこんな時間にこんなディズニー映画じみたタイトルのブログを書きはじめたかということだけど、シンプルにいえば家の鍵をどこかに置き忘れてしまったからだ。

これがもし地元ならば、まず鍵を持ち歩いたりしないし、どこかに置き忘れてしまったところで30分も友達と探し回れば、簡単に見つけられる気がする。でも、残念なことにここは東京なのだ。
今日俺は、合計でおおよそ2kmの道を歩き、5回電車に乗り、たくさんの人間が出入りする場所に3箇所行った。だから、もちろん電話をかけてみたり最善のことはするつもりだけど、もしかしたらもう二度と鍵は出てこないかもしれないし、不動産に頼んで合鍵を作るほうがよっぽど早いだろう。
それでもこの時間にやっている鍵屋なんかに頼もうものなら、何万円かかるかもわからない。そうして今夜の寝床を確保するために飛び込んだ、家の近くのネットカフェ。

もしも池袋行きの電車が終わっていなかったら、間違いなくそっちに行っただろうに、悲しいかな我が家の近くのネットカフェは、今までたくさんのネカフェで夜を過ごしてきた僕史上、最も古くて汚いネカフェだったのである。

そうして部屋に入り、母に電話した。やはり困ったときの母は強い。そして優しい。なぐさめるわけでも叱るでもなく、ただ冷静に対応策を練り、まあそんな日もあるさといって電話を切る母親。
そういえば前にもこんなことがあった気がした。そうしてそれはデジャブではなかった。

あれは忘れもしない今年の二月の……何日だったっけ。とにかく、日芸の放送学科の二次試験の受験の前日のことだ。
日芸の放送学科はどうも田舎ものがお嫌いらしく、一次試験の筆記が終わるとそのまま二次試験の実技に向かう音楽学科や美術学科を尻目に「それじゃ一次の合否は二次の前日に発表するから待っててね~ん」なんて抜かす。別に放送学科が本命ではなかった俺は、まあ落ちててもいいや的な楽観的な姿勢のまま羽田空港に向かう。そうして羽田空港で飛行機の遅れを知り一次試験の答え合わせをしてみた。

一般的に日芸は一次で140あれば実技の出来は多少よろしくなくても受かる可能性は高くなって、また一次と二次がある学科はだいたい110点くらいあれば一次は通過するという(無論芸術学部なので大事なのは実技だけど)。そうして俺は一次で160点をゆうに超えていた。だから俺は帰りの飛行機で羽田を飛び立つとき、滑走路を眺めながら「グッバイTOKYO、また四日後な」などとニヒルな顔でつぶやいたものである。

そうして運命の発表の日、当然のごとく合格していた俺は母親と福岡市の中心・天神で落ち合い、飛行機代の支払いなんかをしてもらって、俺はそのまま羽田へ向かった。母親から「まあ放送は第一志望じゃなかっちゃろ?でもそげんようらにやっちゃだめよ」(*「よーら」…博多弁で「てきとう」「いいかげん」という意味とです)というありがたいお言葉と一万円を頂き、るんるんで東京に飛び立った。しかし、俺も母親も、空港の荷物係員でさえ、俺が学校指定のワイシャツを忘れていってしまっていることに気づかなかったのだ。なんということだろう。それに一番に気づいたのは母で、もちろん母が家に帰ってからのことだった。
空港の係員も、どう見たって俺は入試に行きそうな身なりをしてるんだから、X線をかけて「あのうそちらの生徒さんのスーツケースですばってん、学ランはありますがワイシャツの入っとらんごたるですよう」とくらい言ってくれればよかったのに、どうしてそうしてくれなかったのか不思議なくらいだ。

とにかく、まあワイシャツやら百円ショップででん買うならよかねエヘラエヘラと母と話し合った俺は、すぐさま西武新宿駅のダイソーに行った。しかし、ワイシャツはなかった。
もう夜が始まろうとしていた。歌舞伎町で夜を迎えるのは避けたかったのでワイシャツはあきらめて泊めてもらう先輩の家で貸してもらおうと思った矢先、腹が痛くなった。だから、今でも忘れない島村楽器の横のトイレに駆け込んだ。コートやらなんやらを脱ぎ、さいふをベビーチェアに置いて用を足し、ほっとしてトイレを後にして、エレベーターで一階まで降りたところで気がついた。
財布をトイレに置いてきた。

もうわたしったらおっちょこちょいだなあ、てへっなんて思いながら意気揚々とトイレに戻ると、財布が開いている。おやおやなんだこれはと思いつつ中を見ると、綺麗に一万円札がなくなっているではないか。

俺は絶望した。どうやってこんな不案内な土地で無一文で暮らしていけばいいのだろう。
つらく悲しい気持ちを引きずりながら浴びた東京の木枯らしは、なんともひどいものだった。
そうして母と、対応策を話し合った。キャッシュカードなんてハイソなものをまだ持っていなかった俺は、泣く泣く生まれて初めて文章を書くってことで賞品としてもらった一万円分の図書カードを換金することになった。

どこで換金しよう、と思ったが、金券ショップの場所なんてわからない。必死で調べて歩き回った。
そうして歌舞伎町を歩き回っていると、雑多で、猥褻で、汚くて、高校のころ少しだけ浮き足立って歩き回った中洲の街が、とても綺麗で小さく思えた。

話しかけてくる客引きはとんでもなく邪魔だったが、その中でも人のよさそうな顔をした客引きが「何かお探しですか」と言ってきた。無論この客引きはピンサロとかキャバクラとかそういうのを案内するつもりだったんだろうけど、実はこれこれこうこうだと話して、金券ショップを案内してもらった。後にも先にも、客引きが金券ショップを案内することはないだろう。

そうして一万円分の図書カードを換金して母に電話すると、「よか」とだけ言われた。
何のよかことのあるやろうか。母がくれた一万円は、きっとこの街で使われるのだ。母が稼いだ一万円は、この街で淋しい人間が淋しいセックスをするために使われるのだ。そう考えると、腹立ちとも怒りとも悲しみとも言えない気持ちがこみ上げてきた。

そういうわけで、俺のお守りみたいな一万円分の図書カードは、歌舞伎町の金券ショップにある。今もあるかはわからないけど、いつか金持ちになってそのカードを買い戻すのが、今にところでの俺のささやかな夢だ。

余談だが、俺は次の日の実技試験をぼろぼろのメンタルで迎えた。金をなくし、やけくそで実技受けるのやめようかなって言えば遅くまで面接の練習を手伝ってくれた友達に激怒され。でも結局、その話をエッセイにして実技試験で提出したら合格を頂いた。綺麗と汚い、幸福と不幸、戦争と平和、ものごとはそういうふうにできているのだ。


そういえば、あのとき先輩から借りたワイシャツ、まだ返してないなあ。